平成30年10月十三会例会

●例 会 内 容

日 時:平成30年10月12日(金)19:30〜21:00 【会場:コルテーヌ7F】

●演題&講師

 「島津斉彬の近代化事業と幕末薩摩」
 岩川 拓夫氏
(島津興業観光事業本部営業部販売促進課学芸員)

 

講 演 内 容

大河ドラマ「西郷どん」もいよいよ佳境に入りましたが、今回の例会は島津斉彬について学びました。斉彬の藩主在任はわずか9年と短い期間でしたが、のちの明治維新の原動力になるものを数々と薩摩に生み出し、何より西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀といった優秀な人材を世に送り出したことが、近代・日本の礎になったといっても過言ではありません。大河ドラマのスタッフとして協力した裏話から始まって、斉彬の人となりを学び、郷土の偉人の業績を再確認する貴重な機会となりました。

 県内で最も初詣参拝者数を誇る照国神社の御祭神が薩摩藩28代藩主・島津斉彬です。現在、神社の横に斉彬、久光、忠義の3人の銅像があります。これは1917年、明治50年を記念して建立されたもので県内最古の銅像です。ちなみに西郷像は37年、大久保像は79年の建立ですから、鹿児島の人たちがいかに藩主・斉彬を敬愛していたかを物語るものです。
 斉彬は進取の気性に富んだ人物だったといわれます。渡辺謙さんが演じた「西郷どん」の斉彬はベストを着用していました。実際の斉彬がベストを着用していた記録はありませんが、その時期に長崎でベストが日本に入ってきた事実があることから、進取の気性がある斉彬なら着ていてもおかしくないというドラマ上の演出です。

 斉彬の成し遂げた近代化事業に集成館事業があります。1852年に磯に反射炉を建造したことを皮切りに、様々な近代的な工場群を築き、これを57年に集成館と命名しました。藩の近代化事業を「集成館事業」と名付け、日本で初めて、東洋一といわれる近代工業地帯を作り上げました。
 反射炉はある図面をもとに見よう見まねで作ったものです。西洋から持ち込まれ、日本では佐賀藩に次いで作られたものですが「西洋人も人、佐賀人も人、薩摩人も人ならば屈することなく研究に励むべし」と試行錯誤を繰り返して作り上げたものでした。薩摩焼や薩摩切子など元々薩摩にあった工芸品を海外向けの商品として輸出できるよう創出したのも斉彬でした。
 58年、幕府への建白書の中に、欧米列強が迫る中、日本はどうあるべきかということで「富国強兵」を説いています。この2カ月後に斉彬は亡くなりますが、明治以降の日本の国の方針として斉彬の説いた富国強兵を掲げられたことからも彼の先見の明を感じます。
 このほか、活版印刷、アメリカ式の農具、医療や福祉に力を入れるなど、様々な取り組みがありました。銀板写真は日本人が日本人を撮影した最古の写真として重要文化財に指定されています。紡績でも日本初の洋式紡績工場・鹿児島紡績所を作りました。これを機に全国各地で紡績所が作られ、豊田自動織機、のちのトヨタ自動車へとつながっていきます。
 無論、成功したものばかりでなく、昆布、白魚、真珠、熊など様々な失敗もありましたが、トライ&エラーを恐れなかったのが斉彬です。昆布の養殖が鹿児島で成功したのはつい最近のことでした。日本のものづくりの原点が斉彬の集成館事業にあるといっても過言ではありません。

 斉彬は「異能の才」を見つけることに長けた人物であったといわれます。「人を用いるのは急ぐものではない。1つの事業は10年経たないと分からない」と勝海舟が斉彬の言葉を伝えています。
 四元亀次郎という人物は、集成館で雇ったガラス細工職人でしたが、極めて酒癖の悪い人間でした。それでも斉彬は亀次郎の一芸に秀でた部分を見つけ出し、使いこなして見せました。西郷もまた同様です。
 この時期の集成館事業は土佐、宇和島、上田、福井と全国各藩、オランダ海軍や勝海舟も視察に訪れています。こういったことを自分の藩だけで独占するのではなく、全国に広めることが日本を守り、発展させることにつながると信じていました。

 斉彬は58年に急死します。明治維新が鳴り遂げられたのはその10年後の68年です。斉彬の薫陶を受けた小松、西郷、大久保らが久光、忠義のもとで新しい時代を切り開いていったのです。