平成28年9月十三会例会

●例 会 内 容

  日 時:平成28年9月13日(火)19:30〜21:00    会場:歯科医師会館第2研修室


●講 演

中小企業にも役立つ「人間力」の育て方

●講 師
中野 泰造 氏 (日米教育サポートセンター顧問、鹿児島大学野球部ヘッドコーチ
【プロフィール】
1954年8月22日、兵庫県加古川市生まれ。広陵高(広島)、天理大卒、広陵高時代に2度甲子園出場。高田高定時制(奈良)から高校教員を始め、北大和高、桜井商高(※現在、奈良情報商高)などで野球部監督を務める。その後、大学球界に転身し、東亜大(山口)の15年間で、監督として94年、03年、部長として04年、いずれも秋の明治神宮大会を制し、3度大学日本一を達成した。16年から鹿児島に居を移し、アンダーウッドトレーディング日本支社GM、日米教育サポートセンター顧問を務める傍ら、4月から鹿大野球部のヘッドコーチに就任し、新天地を切り開く。


講 演 内 容

 リオ五輪や甲子園など夏のスポーツが一段落した時期に、現役の大学野球指導者をお招きしての講演でした。野球のチーム作りも企業経営も根幹にあるのは「人」です。「人を粗末にしてはいけない。自分と意見の異なる人がいても、組織の中で必ず役に立てる場所がある」。中野先生の言葉は企業における経営や人材育成の在り方に通じるヒントがたくさんありました。学生6人がオブザーバーで懇親会まで参加し、我々も学生時代に戻ったようなフレッシュな気持ちになれた例会でした。

 私の話は、野球を中心にした自分の経験、感じたこと、野球を通じて出会った人との話が主体になります。野球をするようになったきっかけ、平成3年から18年までいた山口県下関市にある東亜大での出来事、現在と将来に向かってやりたいこと、この3つの柱でお話しします。

1=野球をするようになったきっかけ

 私は昭和29年に兵庫県の加古川というところで、Y家の次男として生まれました。両親は私が生まれる前から不仲だったそうで、生まれて8カ月の時に離婚。母は私だけを連れて加古川から逃げるように、身寄りもない広島にたどり着きました。

 生きていくためには職を見つけなければならず、乳飲み子を抱えての住み込みで働ける場所はなかなか見つからず、私は明治36年生まれのNさん夫婦に預けられました。そこは広島でも名だたる治安の悪い場所で、銭湯に行けば必ず入れ墨をした人がいる。Nさんもそういう家業の人でした。物心ついたころから、殺人以外の大人の裏社会はほとんど見てきたのではないかと思えるようなところで育ちました。これ以上ない劣悪な環境でしたが、今思えばそれが私の心を強く育ててくれたと感謝しています。

 育ての親のNさんからは、生い立ちや戦争時代の話をたくさん聞かされました。Nさん自身は幼い頃父を亡くし、母親はNさんを連れて再婚し、下に5人のきょうだいがいる中で育ちました。小学4年生からぐれてしまい、学校に行かなくなってしまったため、やりたくてたまらなかった野球ができなかったそうです。

 8カ月の私が預けられたのはNさんが51歳のときでした。環境はすこぶる劣悪でしたが、大事に育てていただきました。Nさんは自分ができなかった野球への想いを私に託しました。家の前が公園で、ノックを打ってくれたり、キャッチボールをしたり、あるいは広島カープや高校野球の試合を見に連れて行ってくれたり、私に野球の関心を深めさせるためにいろんなことをしてくれました。

野球に出会ったのは、生みの親が離婚したこと、広島に行ったことが大きかったです。例え普通に育っても野球はしたでしょうが、今のような野球ではなかったと思います。昭和49年に亡くなりましたが、育ての親のNさんに感謝しています。

2=東亜大での出来事

 中学、高校、大学と現役の野球選手として過ごし、大学が奈良にあったこともあって、昭和53年に奈良県の高校教員で採用されました。13年間いくつかの学校で監督をしましたが、ろくな指導者ではなかった。指導で一番簡単なのは叱ることです。選手が失敗したら叱ることでしか指導力をかきたてられない、お粗末な指導者でした。

 運と縁を感じたのは昭和59年のこと。その年、奈良で国体があり、私は軟式野球の部の責任者でした。軟式野球は母校の広陵が優勝しました。部長も監督も、私がいた頃から知っている先生だったので、あいさつに行くとニノミヤ校長先生もいらして、奈良に広陵のOBがいて野球の指導をしていることに大変驚かれたそうです。

 数年経ってニノミヤ先生は校長から理事長になられました。昭和49年に山口県にできた東亜大のクシダ理事長とニノミヤ理事長は懇意にされており、「近々、硬式野球部を設立したいのだが、広陵OBで『これは』と思える人材を指名してくれないか」と言われました。そのときにニノミヤ理事長は私のことが真っ先に浮かんだそうです。広陵OBの誰に聞いても「あの人だったら間違いない」ということで理事長は自信をもって私を東亜大に推薦してくださいました。そういうご縁があって東亜大の監督をすることになりました。

 当時勤めていた奈良の同僚、同級生、誰に相談しても反対されました。当時の東亜大は何もないところからのスタートでしたが、私の中には例え、グラウンドも、野球道具も満足にそろっていなくても、情熱さえあればなんとかなるという不思議な感覚がありました。

 平成3年から12人の新入生と野球部をスタートさせましたが、最初の1年間は野球らしい野球ができませんでした。翌年、まだ子供がたくさんいた時代で、東亜大にも200人の入部希望者が受験し、うち40人の新入部員が入ってきました。その中に北九州出身の本田という選手がいました。

 平成4年から東亜大は中国地区連盟に加盟します。2部からスタートした東亜大はその年の春のリーグで優勝し、1部との入れ替え戦にも勝って、秋からは1部リーグで戦うことになりました。優勝、1部昇格ということで大学の食堂で祝勝会が催されました。私の家から食器を持っていったので、終わった後、部員たちがそれらを持って帰って、家で洗っていました。私が帰宅した頃、3人の部員が洗っていて、その中に本田君がいました。

 「ご苦労さん」とねぎらいの言葉をかけると、本田君が洗う手を止めて「中野先生、僕の左腕で先生を日本一にしますから見ていてください」と握手を求めてきました。18歳の左投手で「生意気な子やなぁ」(笑)と思いながらも「よし、頼むで」と声を掛けました。

 本田君は同級生には人望があったそうですが、練習でも私生活でもご覧のとおり生意気なので、先輩からは嫌われていました。上級生が「あいつは試合に出して欲しくない」というので試合で使う機会がなかなかありませんでした。

2年後最初に入部した12人が4年生、本田君が3年生になった年、春のリーグ戦で優勝して初めて全日本選手権に出場しました。1回戦で負けましたが、秋は行けそうな手ごたえを感じていました。春は本田君を使いませんでしたが、彼を主戦で使えば、勝負できるのではないかと私は考えていました。

秋のリーグ戦が始まる頃、12人の4年生に「本田を使いたい」と話しましたが全員が反対しました。それでも何とかなだめすかし、リーグ戦から登板させましたが、試合中は不協和音がすごかったです(笑)。それでも不思議と負けずに秋の明治神宮大会の出場権を得ることができました。

私の中に多少の賭けみたいなものがあり、1年生の頃「僕の左腕で先生を日本一にさせてみます」と語ったことが頭にあって「そのぐらいの度胸がなければ東京で通用しないのではないか」と思っていました。

 神宮大会の1回戦は法政大が相手でした。元日本ハムの稲葉選手らそうそうたるメンバーがそろっていましたが、本田君はそういうときこそ度胸が据わるのでしょう。2安打、2−0で完封勝ちし、東京中が大騒ぎしました。

 若者は何かをきっかけにガラッと変わるものだとこのとき実感しました。準々決勝の相手は東海大。こちらもそうそうたるメンバーでしたが、どちらが東亜で東海か、分からないような展開で、初回に一挙5点取りました。

 しかし回を追うごとに、本田君の制球がおかしくなっていきます。東海大の打者が見送るとほとんどボールと判定される。9回まで5−1とリードしていましたが、最終回はボール、押し出しの連続でとうとう5−4になりました。本田君が疲れている様子もないのでどうしたことかと思い、とうとう私はタイムをとってマウンドに行きました。

 マウンドで選手を集めて話を聞くと捕手が「ストライクゾーンが小さなハンカチぐらいの広さしかありません」というのです。私は「これはもう負けた」と思いましたが、本田君は「大丈夫です。任せといてください」というのです。こいつはどこにそんな力強い言葉が生まれるのか、不思議な気持ちになりました。

 相手はここで186センチある代打を出してきました。監督はもう亡くなられた原貢さんでしたが、ここで一気に決めようと思ったのでしょう。見送ればボールになるはずですが、初球から打ってきてファールになりました。私は「これはいけるかもしれない」と思いました。案の定次も打ってきてファールで追い込み、最後は渾身の直球で空振り三振を取り、その試合をものにしました。敵が助けてくれることも大いにあると学んだ試合でした。

 決勝戦は当時飛ぶ鳥を落とす勢いの青山学院大でしたが、この試合もどっちが東亜で、青山か、分からないような展開で、序盤から打ちまくりました。

 実はこのとき、ちょっとしたアクシデントがありました。初回にバットが2本折れて、2回も2本折れます。ふっとバットケースを見てみると、使えるバットが4本しか残っていませんでした。もし全部折れて使えなくなってしまったら没収試合になってしまいます。

 下関からバットはたくさん持ってきたはずなのに、不思議に思って部員に聞いたら「宿舎に忘れました」という。仕方がないのでスタンドで応援している部員に「球場のどこかにメーカーの人がいるはずだから、お願いしてバットを用意してもらってくれ」と頼みました。ありがたいことにM社から最初の20本が届き、またS社からも20本が届きました。

良いバットがそろい何本折れても大丈夫になったのでうちの選手たちはどんどん打ちます。8回まで4−0とリードしましたが、そこからレフトが何でもないエラーを落球したのを皮切りに、ライトもフライを落とし、気がつけば4−3の1点差に詰め寄られました。

私は再びマウンドに行き、選手に話を聞きます。それでも本田君は「任せといてください」と言うのです。案の定、その回を抑え、9回は見たこともないようなボールを投げて追加点を許さず、とうとう優勝することができました。日本の大学野球で地方の大学が日本一になったのは、それが初めてだったそうです。良い経験をさせてもらいました。

選手たちに胴上げされて気づいたら本田君の左手が私の左肩にありました。「こいつは言ったことを必ずやることなんだ」と思いました。この経験から、監督の仕事は練習以上に人の見極めが大事だと気づかされました。誰をどこに適材適所で配するか。力量も大事ですが心のエネルギーというのもある。それらを見極めて選手を起用する大切さを学びました。

それから9年間、東亜大は全国大会には出場しますが、他の大学からもマークされて本気で向かってくるので、なかなかベスト4、決勝に行けない時期が続きました。平成15年を迎え、前の年が「松坂世代」といわれる優秀な選手が大勢いましたが、1つ下はそれより落ちるといわれた年代です。東亜大もその年の4年生は4人しかいませんでした。

その中で主将を任せた宮本君は決してうまい選手ではありません。必ずエラーをするので「エラーマン」とあだ名をつけたほどです(笑)。しかし、不思議なもので彼がエラーをした試合で負けたことがない。彼には不思議な能力があって、ジャンケンがめっぽう強い。先攻後攻を決めるジャンケンはほとんど勝って後攻をとっている。そのコツを聞くと「後出しをするんです」と言います。実際やってみると後出ししているようには見えないのに必ず私は負けてしまう。たまに負けると「先攻をとれ」と心で念ずると不思議と相手が先攻をとってくれるので、うちはいつも後攻で試合ができました。

15年は春秋連続で全国に出て、秋の神宮大会の組み合わせ抽選会で宮本君は選手宣誓を引き当てました。神宮大会は10校出場でうち4校がシード校。選手宣誓の1番クジはシード校しか引けないはずなのに、宮本君は役員のスキを突いて1番クジを引いたのだそうです。そんな不思議な力を持った子でした。

全国大会に出ると、私は選手に何か一つ、新しい武器を身に着けて出ることをやってきました。その年は室内でもできるウレタン製のボールで使うマシンを購入し、155から160キロのスピードボールをひたすらファールする練習をしました。全国ではそのぐらいの球威がある投手がざらにいます。特に宮本君はリーグ戦で1割打てるかどうかの打者なので、ひたすら徹底させました。

初戦の東北福祉大戦で快勝し、次の対戦は早稲田大でした。阪神の鳥谷や、カブスの青木らがいて、実力は圧倒的に上です。「コールドにならなければいいが」と思っていましたが、案の定、3点を先制されます。しかし、一瞬のスキを突いて3−3の同点に追いつきました。なおも一死満塁で宮本君が打席に立ちます。

打率1割に満たない宮本君なので私は彼に「自分の得意なことをやれ」と指示しました。彼は一塁方向へのセーフティーバントが得意だったはずですが、初球から積極的に打っていきます。この秋は150キロの直球をファールして粘ることを彼に課していたことを思い出しました。これで凡退なら仕方がないと覚悟を決めましたが、2ストライク1ボールと追い込まれて、直球なら三振だったでしょうが何を思ったか、相手の投手が変化球を投げてきて、それが宮本君のスイングとバッチリ合って満塁ホームランになりました! 練習でもオーバーフェンスを打ったことがない選手が大舞台で打ってくれたことで勢いづき、準決勝、決勝も勝って9年ぶりの優勝を手にすることができました。

久々の優勝に酔いしれていると、優勝旗を受け取った宮本君が一塁側スタンドに向かって優勝旗をかざしました。その年の春に大分の日本文理大が初優勝して、優勝旗を一塁側にかざした姿が翌日の毎日新聞の一面に載ったのを見せて「かっこええな。お前もやってみるか」と話したことを私は忘れていましたが、彼はちゃんと覚えていて実践したのです。大事なのはこのことなのだと思いました。

翌平成16年はリーグ戦も、全国大会も完璧な試合運びで、東亜大野球の集大成でした。そのときの主将の富浦君もやはり優勝旗を仲間にむかってかざしました。こういうことをやってのける選手の力は、こんなところにあるのだと東亜大の15年間で学ばせていただいた貴重な経験でした。

3=現在と将来に向かってやりたいこと

 東亜大の15年間の後、母校の天理大、山口県の高川学園という高校で監督をさせてもらい定年を迎えました。東京にいる知人が「君の野球を東京で残してみないか?」と誘ってくださる方がいました。しばらく考えてもう少し野球を勉強したいと思って、昨年の8月から3カ月間、渡米してフロリダにあるベースボールアカデミーに通いました。

 勉強といってもそこに通う子供たちと一緒に野球をするだけです。渡米してみると、鹿児島から移住している人に多く出会いました。その中でも木下和孝さんという指宿出身の方に会いました。木下さんは日米の野球に精通しており、日本の高校野球の代表チームが遠征で来た際はこちらの窓口になるなど、両国の懸け橋になることに尽力されている方です。木下さんと話しているうちに、木下さんの故郷・鹿児島に対する想いに惹かれました。

 私は東亜大時代に20人ほど鹿児島出身の学生がいました。親しくしている中学や高校の指導者もいらっしゃいます。鹿児島とアメリカの懸け橋になり、野球を根付かせる活動をしてみたいという気持ちが抑えられなくなって、何ができるというあてもなく、鹿児島に行くことを決めました。

 どこかで野球のお手伝いができないかと思い、東亜大にいた頃の、10数年前から鹿児島大の学生が毎年一度は遊びに来たり、野球を学びにきた縁もあったので、今、鹿大野球部のお手伝いをさせていただいています。

 今年の8月、南カリフォルニアから11人の学生が鹿児島にやってきて、鹿大、東亜大、和歌山大、熊本大と親善試合が実現しました。木下さんの「想いの熱いうちに何かやってみませんか」という言葉に動かされ、準備期間が短い中で実現することができました。

 いろんな思い出があります。鹿大の選手が熱中症で倒れてヘリで運ばれたり、11人いたはずのアメリカ選手が1人いなくなったり…一番の思い出は、その失踪した学生がご家族の方と一緒に見に来て、鹿大の野球を見てお父さんが「素晴らしい。アメリカにはこんな野球はない。息子にはぜひここで野球を学ばせたい」と言いました。その子はまだ17歳ですがこの子がいつか鹿大の扉をこじ開けてくれるのではないかと思いました。野球を通じた日米交流が一つ実を結んだ気がして、やって良かったと思いました。ものすごくエネルギーが要って、終わった後は力が抜けましたが、しばらく経つと力が湧いてきて、次は何をするか、今いろんなことを考えている最中です。

 野球を通じて、子供、若者を育てたいという使命感があります。今、鹿大で学生のお手伝いをしていますが、やればやるほど子供たちに愛情、愛着がわいてきて、個の野球部を絶対強くしてやろうという気持ちになります。人材は国の宝であるということを、親善野球を通じて思い新たにしたところです。

 40数年の指導者人生を振り返りましたが、今思えば「出会い」の大切さを思い知らされる日々でした。尊敬するある先生から「泰造、金持ち、土地持ちもいいけれど、一番幸せなのは良い人に恵まれる人持ちだぞ」と言われ、心が震える想いがしました。

 10年ほど前、私は女房に先立たれました。子供も独立していたので、それから8年半、独り身でした。自分では少々のことでは動じないと思っていたのですが、4、5年前から体調を崩し、2年前が最悪の状態で、血圧が200近くまで上がり、鬱のような状態でした。このままだと危ないということである人が紹介してくださったのが今の妻です。

 音楽の先生で野球には全く興味はなかったのですが、この人がいなかったら鹿児島に来ていなかった。「あなたから野球をとったら死ぬ。あなたの野球を子供たちに伝えて」といつも言われています(笑)。夫婦仲睦まじく、円満であることが全ての第一だと思います。そのことを教えてくれた2代目の奥さんに感謝と感動の毎日であるという、のろけ話で締めくくらせていただきます。ありがとうございました。

・質疑応答

 満塁ホームランを打った宮本君はその後どうなったのですか?

 卒業後は佐川急便というところで社会人野球をしていました。入社式の時に同期は1000人ぐらいいたそうですが、代表であいさつしたそうです。多分その辺のクジを引き当てたのでしょう(笑)。その後、主将も務め、監督候補だったそうですが、東亜大が低迷した時期があり、今の理事長から相談を受けた際に、宮本のことが浮かんで、今東亜大監督をしています。

 経営者として組織づくりをしていますが、人が増えれば増えるほど、悩みも増えます。野球の監督さんは組織づくりの名人だと思いますが、悩んだり、選手のモチベーションアップの方法が分からないときなど、どうやって打破されるのですか?

 私はよくしゃべる人間ですが、独り身が長かった頃は、家に帰っても話し相手がいませんでした。一人で考え事をすると知らず知らずのうちに悪いことばかり考えて、良い手が打てなくなってしまう。今、奥さんがいて話し相手がいてとても助かっています。

最後は自分がしっかりすることが大事ですが、まずは家庭をしっかりする。そうすれば少々のことでは動じなくなるのではないでしょうか。

奈良で13年間、高校の指導者をしていた頃、3度部員に全員辞められるという失態がありました。その頃はやめたいヤツは辞めさせる、去る者は追わず、人を切るような言葉を随分使っていました。

しかし、経験を重ねていくうちに人は粗末にしてはいけないと思うようになりました。捨てるものは何もない。例え私と意見が違う人間がいても生かせる道は絶対にある。捨てる人材は1人もいないことが最近分かりました。

野球のチーム作りで9人が9人素晴らしい人材がそろうことはめったにない。しかし、何カ所かツボになるポジションをつかむことができれば、少々力量の劣る人間がいてもそいつが全体を引き上げてくれることを経験で知っており、自信を持っています。

木下さんが鹿児島で野球アカデミーを作りたいという構想があると話していましたが現在具体的に何か進んでいますか?

木下さんのアカデミーとは別なのですが、私は今、鹿児島の野球界は鹿大が核にならなければならないと考えています。日米野球の経験から、春先などにいろんな大学チームを呼んで大会が開けないか考えていますが、鹿児島市内は野球場が少ないです。

桜丘にある鹿大のグラウンドも試合ができる状態ではない。あるとき奥さんと話していて、あそこは医学部がある場所で病院です。だったら、あそこを患者さんが見に来られるような憩いの場を作り、鹿大の学生が躍動感ある姿をみせる。そういう名目であそこを球場かすることはできないだろうかと考えています。そうやって市内に野球のできるグラウンドがたくさんあり、県外から多くのチームがやってきて交流することで地元を盛り上げる。そんな構想を今考えているところです。

中野先生の野球はノーサイン野球を聞いていますが、それを解説していただけますか?

やるきっかけは奈良の高校時代の経験です。私がサインを出すとことごとく失敗する。それを選手のせいにしていました。しかしよくよく考えると、失敗するタイミングでサインを出す監督が悪いと思うようになりました。

ある時生徒にサインを任せてみましたが無茶苦茶でした。次は1人1人が考えてやりなさいというようになると、面白いことが起こった。1人1人が野球を考えるようになると、上達がどんどん早くなる。「お前そんなこと考えとったのか」とこっちが驚くようなことを子供たちがある。常識にとらわれない発想を子供たちはしますから、野球がどんどん面白くなるのです。

監督や指導者が「こうするものだ」と押さえつけることほど、子供たちを野球嫌いにさせるものはありません。好き勝手にやらせることとも違う。野球には1球1球に意味があり、奥深さがあることを、指導者も選手も、日々勉強するようになります。「野球が分かっている」選手が9人、ベンチに18人そろえば、少々力量が劣ってもものすごい力を発揮する。相手のことも見えてくるようになる。

決してサインを出していないのではなく、日々の積み重ねの中から、アイコンタクトだったり、お互いの心が分かったり、暗黙のうちに言葉に出さない緻密なサインがたくさん出来上がっていくのだと考えています。