平成22年2月十三会例会

●例 会 内 容

日時

2010年2月12日(金曜日)PM7:30

講演

天文館の歴史

講師:唐鎌 祐祥(からかま やすよし)氏

著書:「天文館の歴史」 「昔の鹿児島 かごしま新聞こぼれ話」
       「鹿児島の寄席・劇場・映画館史」

元鹿児島国際大学図書館事務長、元県教育委員会委員長

講師近影
●内容
以下内容にてご講演いただきました。
  • 天文館というのはどこか

    明確なエリアは決まらない。時代・人によって異なります。
    タクシーで行き先を「天文館まで」といっても時間帯や客層で違うはず。

  • 天文館を調べる対象とした理由

    やはり「天文館」という名称の知名度は高いのです。
    古くは“中福良”とよばれたこの地は非常に変化が大きかった場所です。

  • どうやって調べたか

    サブカルチャーに関する史料は非常に少ないのです。
    でも新聞記事を調べることで昔の世相がみえてきました。
    ただし広告等の誇張もあるので統計資料等との対比照合は大事です。
    自分なりの史料(根拠となるモノ)を探しだすことは大切です。

  • 城下の中心地区を歌った俗謡

    銭(ぜん)な ざっくざっく 金生町
    道(みち)ゃ 狭(せ)べ狭(せ)べ 納屋ん馬場
    頓着(とんぢゃ)か 中町
    仕事(しご)ちゃ 千石馬場
    晩(ばん)な 暗(く)れ暗(く)れ 天文館

    当時の城下絵図を見ながら風景をイメージしましょう。(市立美術館所蔵 鹿児島城下絵図)

  • 幕末の天文館はどういうところだったか

    各地の領主のお屋敷がズラッと並んでいました。
    中福良という地名は堤防・砂洲等の高台につけられる地名です。
    火の見櫓も設けられたお屋敷街で人通りは少なかったそうです。
    薩摩藩は明治の初めまで独自の暦を作っていたため天文に熱心でした。
    なぜ独自の暦を作ることが許されていたのかは不明です。

  • どうして静かな大身(たいしん)屋敷地が現在のような中心市街地になったのか

    明治に入り浄土真宗が赦され西本願寺が建立されたことにより
    門前町として栄えるようになりました。
    大身の没落や屋敷の焼失等もあり大身屋敷が分譲され、寄席・芝居小屋が立ち並ぶように
    地租改正により金納が求められたことから大身屋敷の分譲がさらに促進されました。
    活動写真や劇場が益々増えて娯楽地として活況を呈し、昭和8年頃が最盛でした。
    (黎明館に模型あり)
    でも先の大戦で焼け野原になってしまいました。
    戦後の復興も集客の牽引役となったのは映画館でした。

  • 天文館の復活の要因

    復活のためには強い集客力を持つ娯楽が必要です。

  • なぜ都市に中心街が必要なのか

    都市中心街は人工物ではあっても人々の記憶に沈潜することで第2の自然のように癒しの場となっていきます。

  • 「天神馬場のアメニティーの秘密」

    古いモノと新しいモノが共存することで喧騒の中の静寂という切り離された空間が浮かび上がりアメニティ(環境の快適性)が生まれています。こうした考えを街づくりに活かしていくことが大切です。

講師の先生には懇親会にもご参加いただきました。

会場風景1会場風景2
会場風景3会場風景4
会場風景5懇親会風景1